「こんばんは」と挨拶を返したのは一人だけだった。
もう一人は一言も喋らずテレビに釘付けだ。
本当に言われたとおりだ。
きっと、挨拶を返したのがティエリア、もう一人が刹那なんだろう。
「刹那、挨拶くらいしないのか」
ティエリアに言われても、刹那は困ったように一度ティエリアを見ただけで、だんまりである。
「…すみません」
「いや、別に…」
なんだか変な感じだなとアレルヤは思う。
年は13と11のはずだ。
挨拶という当たり前のことも教わってこなかったわけじゃないだろう。
ティエリアの方がいやに礼儀正しすぎる。少なくとも自分はそうではなかった。
「アレルヤ、夕飯食ってけよ」
キッチンに立ったロックオンが振り返る。
「良いんですか?」
「あぁ。余ってるしな」
ご飯を食べない二人への皮肉なのかもしれない。
けれど刹那もティエリアもお構いなしで、ちらりと時計を見ると立ち上がった。
おやすみなさい、と残して部屋を出て行く。
「−時間通り、か」
ロックオンも同じように時計を見る。
「何がですか?」
尋ねると、彼は大きなため息をついて、あいつらには客間を貸してるんだけど、と話し出した。
最初の2日間、刹那もティエリアも学校に行ったり、必要最低限のこと以外、その客間から出てこなかった。
客間はリビングに行くまでにそのドアがある。
つまり、リビングに一度も足を踏み入れず、ロックオンと顔を合わさない生活を送っていたそうだ。
3日目ーつまり、一昨日だーの朝、学校に行くため家を出ようとしていた2人を捕まえて、部屋に篭るなと言ったらしい。
1ヶ月、話もしないままじゃお互い気まずいだろう、と。
せめて学校から帰ってきて、9時まではリビングに居てくれれば、それなりにコミュニケーションが取れるだろうとロックオンは踏んだのだ。
…見事にそれは外れたけれど、と言ってロックオンは苦笑した。
「昨日も、約束をした一昨日も、リビングにはいたが会話らしい会話は少しもしてない」
まぁあの様子ではそうだろう。
アレルヤは心の中で呟いて、たった今目の前に置かれた器に目をやった。
シチューである。
手作りらしく、野菜が不均等にごろごろと入っていて、食欲をそそる匂いがする。ほかほかと湯気のたつそれはとてもおいしそうだ。
けれどふと、刹那とティエリアがご飯を食べないのだと聞いたことを思い出して身体に力が入った。
これを本当に食べて良いのだろうか。
良いのだろうか、というより、大丈夫なのだろうか。
ティエリアたちは食べもせずに要らないと言う、とは聞いたけれども、
それはあくまでロックオンが見ていないというだけで、もしかしたらこっそり食べたのかもしれない。
食べれないような代物だったとすれば。
「アレルヤ?」
戸惑っているのに気づいたのか、向かいに座ったロックオンが首をかしげた。彼はもう食べ始めている。
慌ててスプーンを握った。失礼じゃないか。味がどうだったとしても、少しでも食べてみなければいけない。
覚悟を決めて口に運んだ。途端、拍子抜けした。
「……おいしい……」
ぽつりと呟くと、ロックオンがぱっと笑顔になった。
「ほんとか?」
「はい、とても」
嘘ではなく、本当においしい。
見た目も、味も完璧だ。どうしてティエリアたちは食べようとしないんだろう。
ロックオンはわざわざ3人分作っているというのに。
(わざわざ…?)
その言葉に引っかかって、それからピンときた。
ーそうか、もしかしたら、ティエリアは。
「あの…」
「どうした?」
「気を、使いすぎてるんじゃないでしょうか」
「え?」
ロックオンがきょとんとする。
しまった、突然言い出しても何のことだかわからないじゃないか。
「ティエリアのことです」
急いで付け足すと、あぁ、と納得したような声をあげて、「どういうことだ?」と尋ねてきた。
「迷惑をかけたくないって思ってるんじゃないですか」
ご飯を食べないのも、リビングに居たがらないのも、自分たちが来る前と変わらない生活をさせたいと思うからだ。
そういう思いは、アレルヤにもあった。施設で育つ間に、感じるのは感謝だけではない。
経営は決して楽ではないはずなのに、養われているという罪悪感。
年齢が上になるにつれて、小さな頃とは別の意味で、自分に親がいれば、と思うようになる。
アレルヤがそう思ったのも、2年前くらいだったかもしれない。
つまり、今のティエリアと同じ年。
色々なことに敏感になっていく。難しいことを何も考えずに過ごしていた子供時代との、明らかな変化。
「別に…迷惑なんかじゃないんだけどな」
ぽりぽりと頬をかきながら、独り言の様にロックオンが呟いた。
この人ならそうだろうな、とアレルヤは思う。
昼間に知り合ったばかりなのに、なんとなく、ロックオン・ストラトスがどういった人物なのかわかりはじめていた。
今しがた彼の言ったことは本心だ。迷惑だなんて思っていない。
きっと、ティエリアたちとの絆を深めたいのだと思う。
施設に居たときよく言われた。同じ家で暮らしていれば、それが家族なのだと。
1ヶ月だけの関係なんて、家族とはいえない。けれど、ロックオンは少しでもそれに近づこうとしている。
だから自分に構わせまいとするティエリアたちとの距離は変わらないままなのだ。
「この際、話すとか、話さないとか、そんなことはもう良いんだ。とにかく、食事だけでもしてくれないと」
身体が心配なのだ。さすが看護師だけある。
それを目指すアレルヤとしても、気持ちは同じだった。
出会ったばかりの人にこんなにも親近感が湧くなんておかしい。
けれど放っておけなかった。ティエリアと刹那が自分と似たような境遇にあると言うことも関係しているのかもしれない。
「あの、明日も来て良いですか」
自然と、口が動いていた。またきょとんとするロックオンを前に、畳み掛けるように言葉を連ねる。
「食事は僕が作ります。今日のお礼です。簡単な物しか出来ないけど」
「おいおいそんな、」
「良いんです。僕が…その、お礼したいだけだから」
どうすればご飯を食べてもらえるのか、なんて、思いついていない。
けれど、少しでも事態が好転するような気がしたのだ。
「ーわかった。じゃあ、明日な」
ふわりと彼が微笑んだ。
優しげな笑みにほっとして、アレルヤは食事を再開させたのだった。



 




翌日、約束通りアレルヤはロックオンの家を訪れた。
彼は居ない。居るのは、学校から帰ってきたティエリアと刹那だ。
「学校帰りに、直接うちに来いよ」
昨日の帰り道、家まで送ってもらう車の中でそう言われた。
「無防備すぎなんじゃないですか」
何かする気はないけれど。
自分の居ない家に他人を3人も置いておくなんて、アレルヤには到底出来そうにない。
短期間でそうまで人を信用できることに驚いて問いかけると、彼は悪戯っぽく笑って聞き返した。
「それを言うならお前も、ちゃんと信用できない人の車に乗るのは無防備なんじゃないか?」
「…それは」
言葉に詰まってしまう。
完璧に信用していたわけではない。勿論。
けれど、どこかで大丈夫なのだという思いがあった。
本当はいけないのだ。悪い人は、よく分からないけれど、そう思わせることが得意なのだから。
言葉を紡げないでいると、ロックオンは「からかっただけだよ」と言ってまた小さく笑った。
「とにかく、明日バイトがないなら直接うちに来い。お前を家に入れるより、あの2人を家に長時間置いておくことが心配だ」
また何かを食べに出ようとしたら止めてくれ、とも言われた。
彼は今日こそ、食事をしてもらうつもりでいるのだ。
(…なんだか、プレッシャーだなぁ)
今日の食事は、アレルヤが作ると申し出たからだ。
料理は、下手ではないと思う。けれど、彼らの口に合うかどうかはわからなかった。
(その前に食べてくれるかが問題なんだよね…)
リビングに居るという約束を今日も守るであろうティエリアと刹那が外に出て行くのを止めることができれば、お腹を空かせた2人は食べてくれるかもしれない。
けれどするりとかわされそうな気がする。実際今まで(どんなことをしていたのかは知らないが)ロックオンの努力は無駄になったわけだし。
失敗したところで責められることでもないのに、やけに緊張してしまう。
やってみるだけだから、と自分に言い聞かせてインターホンを押すと、ややあって扉が開きティエリアが顔を出した。
ロックオンから話は聞いていたのだろう。特に驚いた様子もなく、彼は何も言わずにドアを大きく開いた。
リビングまで辿りつくと、そこには刹那と、取り込まれてすぐの散らかった洗濯物。
これからたたむつもりなのか、ティエリアはその前に座った。
「手伝おうか?」
夕食を作るまでにまだ時間はある。買ってきた材料をとりあえずテーブルの上に置いて言うと、ティエリアはちらりとこちらを見た。
「いい」
「そっか…」
どこかで予想していた答えなのに、しゅんとなってしまった。
本当に人を寄せ付けないこどもだ。そういえば、身体的接触も避けるのだとロックオンが言っていた気がする。
施設に反抗的なこどもが多かったせいか、拒絶されることはよくあった。
けれどその時の悲しさにはなかなか慣れることが出来ないのだ。かなしいものはかなしい。
どこか気まずい雰囲気に耐え切れずうつむくと、ティエリアの慌てたような声が聞こえた。
「自分でできるから、いいんだ」
ぱっと顔をあげる。ティエリアはもうこちらを見てはいなかった。
自分の言ったことでアレルヤを傷つけたと気づいて、これは彼なりの弁解なのかもしれない。
やはりティエリアは他人に気を使いすぎるのだと確信した。
自分に構わせないために拒絶しておきながら、傷つけることに罪悪感を感じる。
ひどく不器用だ。素直じゃなくて、だけどどこか憎めない。
思い違いだとしても、それはアレルヤの心を少し軽くした。


 



夕食を作ることしかやることが見つからなかったので、アレルヤはキッチンに立った。
何がいいのかよく分からなかったが、大量に作って取り分けるより、一人一皿の物がいいだろう。
自分の分だと目の前に出されれば、ティエリアたちも食べるかもしれない。
そう思って夕食はグラタンを作ることにした。
だけどよく考えればその手はもう既にロックオンが使っている気がする。そして、失敗した。
(どうしたら良いんだろう)
この場になっても、どのように食事をさせればいいのか全然わからない。
けれど約束は約束だ。食べなかったとしても夕食を作るだけ作ってみなければならない。
気持ちを切り替えてアレルヤは調理に取り掛かった。
買ってきたのはマッシュルームと鶏肉だけだ。グラタンを作ると言うと、あとはうちにあるからとロックオンに言われた。
タマネギを切りながらお湯を沸かしてマカロニを茹でる。
ホワイトソースはインスタントにしようかとも思ったが、せっかくなのだからと自分で作ることにした。
ティエリアたちが動く気配がしたのはそのホワイトソースを作っているときだ。
「どこ行くの?」
時間は6時前。いつものように、夕食を買いに行くんだ。ロックオンはまだ帰らないだろうから。
「…外に」
やっぱりそうだ。思った途端、アレルヤは焦りだした。どうしよう、なんとかして止めなくちゃいけない。
「ちょっと待って!」
「…何だ?」
言ってみたのはいいが、その後どうしたらいいのか分からない。
ティエリアと刹那は既に廊下に続くドアの前に立っていて、あと一歩踏み出されてしまえば追いかけて無理やり止めるしかなくなる。
でも今は小麦粉を炒めているし、ここを離れればそれは焦げてしまってホワイトソースは失敗だ。
どうしよう。
これから牛乳を入れて、伸ばさないといけないのに。ホワイトソースを失敗すれば、夕食を食べてもらうどころではない。
(ーそうだ、牛乳)
「て…手伝ってくれないかな?」
2人の目が大きく見開かれた。そんなことを言われるとは思っていなかったらしい。
「……何をすればいいんだ?」
意外にもあっさりとティエリアが尋ねた。
もちろんその方が良いのだが、先ほどとは違う印象に少し呆気に取られた。
もしかしたら、本当は素直な子かもしれない。
「手伝わなくていいのか?」
アレルヤが黙ったままなので少し焦れてきたらしい。
慌てて小鍋に入れて温めた牛乳を指差した。
「これを入れて欲しいんだけど」
「全部か?」
「あ、えっと…1/3くらい」
注意深くティエリアが牛乳を入れた。鍋の中身を木べらでまぜながら刹那もこちらをじっと見ていることに気づく。
可愛いな、と思った。何をしているのか興味があるのだ。
けれど小さな刹那にとって、調理台がすこし高いらしく、背伸びをして鍋の中を見ようとするがうまくいかない。
結果、恨めしそうな顔をしてじっとアレルヤとティエリアを見つめている。
「ちょっとこれ、頼んでも良い?」
ティエリアに木べらを渡して傍にある椅子を運んでくる。
邪魔にならないけれど鍋の中身が見える所に置いてやり、刹那を見ると、彼は頷いて小さな声で言った。
「…ありがとう」
「……」
この子、喋らないんじゃなかったっけ。
もしかして、ここに来て初めて喋った?あれだけ悩んでいたロックオンよりも先に、自分が声を聞いてしまった?
「おい、これ、うまくできない」
良いのだろうかと思っているとティエリアの声で我に返った。
やったことがないのか。木べらをもって、鍋の中をがすがすとつついているだけだ。
「代わるよ。牛乳、さっきと同じくらい入れてくれる?」
「わかった」
鍋の中身を混ぜながら両方からの視線を感じて、くすぐったい気持ちになった。
そうやって混ぜるのかという声が聞こえたので、ティエリアにもう一度木べらを持たせてやる。
自分も手伝いたいと言いたげに刹那が見ていたので、彼には残りの牛乳を入れてもらった。
なんだか楽しい。こうやって誰かと料理をするのは久しぶりだ。施設に居たとき、料理を教えてもらった以来かもしれない。
最後グラタン皿に移したあと、チーズを3人でのせているとドアが開閉する音が聞こえた。ロックオンが帰ってきたのだ。
キッチンのアレルヤたちの様子を見てぽかんとする。
「…何があったんだ?」
「特に、何も」
確かに昨日と随分雰囲気が違うし、不思議に思うのも頷ける。アレルヤだってなぜこうなったのかよく分かっていない。
「あとオーブンで焼いたら完成なので、もうちょっと待ってください。10分くらいかかりますけど」
「あぁ、それは良いんだが、お前ら…」
彼が何か言おうとした時、ぐう、と小さな音が聞こえた。刹那だ。
困ったようにティエリアを見る。ティエリアも困った顔をしていた。
店なら十分開いている時間だ。
けれどアレルヤとロックオンは止めるだろうし、なにより目の前に置かれた4つのグラタン皿がティエリアを引き止めていた。
それを素早く察知したロックオンがチャンスとばかりに慌てて口を開く。
「これ、一緒に食べよう」
「手伝ってくれたんだから、ね?」
「…迷惑じゃないのか?」
困った顔をそのままこちらに向ける。ひどく呆れた様子でロックオンが見返した。
「お前…まだそんなこというのか」
「でも…寝る場所だけで十分なのに、食べ物まで」
やはりどこかずれている気がする。
「あのなぁ…1ヶ月間、お前らがうちで飯を食べなかったらどうなる。
お前らは迷惑かけないつもりで食べなかったつもりかもしれないが、はたから見たら俺が食べさせてないことになるんだぞ。
そうなったら俺が責められて、そっちの方が迷惑だ」
自分のしていたことが間違いだったのだと思ったのか、ティエリアは俯いてしゅんとしてしまった。
なんだか可愛そうだ。ロックオンの言うことはもっともであるけれども、これはティエリアがちゃんと考えてやっていたことなのに。
なんとかフォローしなければと思ったのに、しばしの沈黙のあと、ティエリアはぱっと顔をあげた。
まだ不安そうな表情が残っている。
「食べます。本当に、迷惑じゃないんですか?」
「当たり前だろ」とロックオンが言うと、どこかほっとした表情になった。
それを見てアレルヤたちもほっとする。とりあえず、夕食を食べさせることは成功したようだ。



 


「今日はありがとな」
帰り道の車の中。食事を一緒にして、昨日と同じようにロックオンに送ってもらうことになった。
「いえ、そんな…僕は何もしてません」
「そんなことねぇよ。少なくとも、あいつらが夕飯買いに行くのを止めてくれただろ」
「まぁ、それはそうですけど」
「それに、刹那の声も聞けたし」
そう言われて、彼の家をでる直前のことを思い出す。
ロックオンと一緒にリビングを出ようとしていた時、刹那が不意にアレルヤの服の裾を引っ張ったのだ。
「どうしたの?」と尋ねると、また小さな声で「ありがとう」と言った。
その言葉を聞くのは2度目だったけれど、ロックオンは深く感動したらしい。
それはそうだろう。5日目にして初めて刹那の声を聞いたのだ。
「どういたしまして。おいしかった?」
しゃがんで、目線を合わせてやる。
刹那は小さく頷いて、それから「名前、」と呟いた。
「名前?」
「お前の名前…なんて言うんだ?」
あぁそう言えば自己紹介もしていなかった。ロックオンに度々名前を呼ばれていたけれど、聞いていなかったのか。
だとすれば、本当に他人に興味のない子ということになる。ティエリアより重症かもしれない。
一体どういう環境で育ってきたのかと不安になりつつも、小さく笑ってその声に答えた。
「アレルヤだよ」
「…アレルヤ…」
反芻してこちらを見る。頷くとかすかだけれど、笑った気がした。


「…けど、なんで俺は思いつかなかったんだろうなぁ。一緒に料理するなんて、距離縮まるよな、そりゃ」
隣で運転するロックオンが独り言を言った。
それは、あなたが何でもひとりでやってしまうからじゃないですか。
言いかけた言葉を飲み込む。ある程度親しくなったとは言っても、そんなことを言えるほどの関係ではないと判断したからだ。
ロックオンは気が回る。面倒見も良いし、ティエリアや刹那の世話をすることくらい平気なのだろう。
けれどティエリアたちにとっては、それが多分辛かったのだと思う。
何もせずとも全てやってくれる。ロックオンにとってなんでもないことでも、迷惑をかけていると思ってしまうのだ。
そう考えれば、偶然一緒にやった料理は良かったのかもしれない。あくまで、結果論だけど。



アパートの前に車が止まり、礼を言って降りようとすると「またいつでも来てくれよ」と言う彼の声が聞こえた。
お決まりの社交辞令だと思って「はい」と返事をする。本当は多分、もう訪れることはないのだろう。
走り行く車を見送って、なんだか急に寂しくなった。



また会いたいなという願いが実現するまで、そう長くはなかった。