その傷に気づいたのは、自分が、顔も知らない誰かと同じことをしたからだった。
不定期に訪れる彼と当たり前のようにベッドに転がり込む。
だんだん前後不覚になって、わけも分からず腕を伸ばした先に、それはあった。
自分の指の幅とは合わない、まだ新しいひっかき傷。
どう考えたって、普通の生活を送っていて背中にそんな傷ができるわけがない。
「お前…恋人がいるのか」
昂っていた気持ちが一気に冷めて、真上にいるミハエルを見上げた。
まぁなかなか整った顔をしているし、放っておいても女は寄ってくるのだろうと思う。
そういえば今日も、香水のにおいをぷんぷんさせたまま来た。こういったことは初めてではない。
けれど基本的に、彼がどこで誰と寝ようとそれは彼の自由だ。拘束する気なんてさらさらないし、そもそもそんな関係ではない。
特に気にしたこともなかったのに。
「…こんなときに聞くかよ、普通」
彼は一瞬目を見開いたあと、呆れたように溜息をついた。
「今聞きたかったから聞いた。それだけだ」
身体だけの関係に、ムードや上辺だけの言葉など必要ない。
「いるのか?」
もう一度尋ねるとミハエルは答えない代わりに身体の位置を少し変えた。
中に入っているものが動いて思わず声を上げてしまう。
背中にしがみついた、その手が傷に触れてなんだか急に苛々してきた。
恋人が居るのならそいつを抱けばいいじゃないか。男だか女だか知らないけれど。
どうしてわざわざこんな所まできて、俺にこんなことを。
「嫉妬してんの?」
「…嫉妬?」
ハッと乾いた笑いが鼻から漏れる。
「俺がそんなものするわけないだろう」
今度は向こうが嘲笑した。
「わからないぜ?気持ちが身体に従順になるかもしれねぇ」
どういう意味だそれは。
聞こうとした言葉も、彼に塞がれて紡げない。
苛々が収まりきらないので、絡まった舌に噛みつくと血の味がした。
気持ち悪いはずなのに、少しだけ腹がおさまる。
ざまあみろ、とどこの誰だか知らない相手に言ってやりたい気持ちになって、そのことに戸惑った。
嫉妬?
今笑ったはずの言葉が心に引っかかる。
「痛ぇよ」
「うるさい」
「お前、ほんと中身も女みたいなのな」
それは女々しいということだろうか。
少し満たされたはずなのにまた苛々としてきて、何か言ってやろうと口を開いて、…やめた。
彼を中に収めた、身体が疼いてしかたない。
「もういい、早くしろ」
言うと、彼は「はいはい」と返事をし、そしてゆっくりと動き出した。
また息が荒くなる。
汗でつるつると滑る肌を辿るといつだって触れる、誰かが付けた傷。
それを消すようにまたガリガリとひっかけば、満足そうにミハエルが喉の奥で笑った。
傷が付けられるのが嬉しいのか。どうかしている。
だけどそれでまたなんとなく気が治まった自分もおかしい。
「ー恋人なんかじゃないから、安心しろよ」
ぴったり密着しながら、ミハエルが耳元で囁いた。
「ぁ…安心、って」
まるで俺が不安に思っていたかのような言い方。
「もう2度と会わないから、怒るな」
「怒ってなどいない…!」
「本当に?」
目を細めて、額に汗を浮かべて笑う彼を見ていられなくなった。
そんな笑顔俺は知らない。
そんな優しい顔、似合わない。
(ーいやだ)
顔を背けて目を瞑る。
もういい。
もういいから早くしてくれ。
覆いかぶさった彼が同じように額に浮かんだ汗を舐めとった。
顔中舐めまわされて、瞼に唇を落とされて、俺はどんどん訳がわからなくなっていく。
「ティエリア、」
「はッ…ぁっ…もう、…ッ」
かぶりをふる度に腰の動きは増し、頼りなさげに差し出された舌を彼は正確に絡めとった。
息ができなくなる。
めちゃくちゃに突かれて意識が遠のいていくのはいつものこと。
白がちかちかと瞬く眼の裏で、ミハエルのさきほどの言葉を思い出していた。
『気持ちが身体に従順になるかもしれねぇ』
なんて馬鹿馬鹿しい。
意味をなんとなく理解して、やっぱり笑ってやりたくなった。
俺はお前なんか嫌いだ。
何の前触れもなくふらりとやってきて、背中には爪痕、甘いにおい。
いつもは好き勝手するくせにたまにこうして優しくなる。理解できない言葉を吐く。
もしお前の言ったとおりだったとしたら、お前はどうするんだ。
その重みをちゃんと受け取ることができるのか?
(ーどうなんだ、ミハエル)
どくんどくんと鼓動の音だけがうるさく頭に響き、手は数えきれないほどの傷を彼の背中に残していた。