残像翠没 廊 下を進みながら床を見つめていた目線を前に投げると、刹那がこちらに向かって来ていた。しなやかなその体躯を確認したと同時に心臓が大きく跳ねた。刹那・ F・セイエイ。名前を思い浮かべるだけで鼓動が速くなる。あの事があってから、いや、彼のあの笑顔を見た時から刹那のことが気になってしょうがない。あ の、悲しい笑顔。 あぁ、困ったな。 「よ。刹那」 移動バーをつかんでいるのとは反対側の手を 軽くかかげて軽く挨拶をする。あくまでも軽く。 刹那は俺に気付くと目を合わせて頷いた。ほんと、無口な奴だ。 す れ違って、すぐ。 「おい、」 この廊下には俺と彼の二人しかいない。と、なると呼び止められたのは俺だろう。その 事実に年頃の娘でもあるまいし微かに喜ぶ自分に内心で苦笑する。 「なんかようかぁ、刹那」 おどけた笑顔を浮かべ ながら振り向く。 「落ちたぞ。」 差し出された手に乗っていたのは一粒の飴玉だった。翡翠色の奇麗な包装用紙に包 まれたそれ。 「あぁ、さっきミレイナにもらったんだよ」 この年になってキャンディーなんて、とも思ったがせっか くお嬢さんがくれるのだから、とありがたく頂戴してきた。たまには甘い菓子も悪くはない。 「…………そうか」 返 事に少しの間が有った。じっと、俺の手に移った飴玉を見詰めている。 「欲しいのか?」 きょとん、と見上げてくる 顔がまるで幼い子供のようだ。こんな顔もするんだな。いつも彼の表面は凪いでいるから、こんな風にふいに変化する表情がとても可愛い。 まっ たく、重症だな。俺は。 「いいぜ、やるよ。ほれ」 ころん。再び自らのもとに戻ってきた鮮やかな色に戸惑って瞬き をする仕草が本当に子供みたいだ。 自然に伸びた手でぽんぽん、と自分より低い位置にある頭を叩けば、想像していたよりも柔らかい黒髪 に笑みが漏れた。そのまま立ち去ろうとして、 「じゃぁ――――っ!」 言葉を失った。 刹那 の、その表情に。 なんて顔をしてるんだ。 呆然、と言えばいいのだろうか。それよりもっと複雑で。 衝 撃を受けて声も出ないような。 悲しいような、嬉しいような、見開いた目。泣きたいような、叫びたいような、戦慄く口元。 「ぉ、 い、刹那!?」 いきなり背を向けて走り去ろうとする刹那を慌てて追い駆ける。 なんだ?俺は何か刹那の気に障るよ うなことをしただろうか、 21歳に対して子供のように飴玉を与えたことが逆鱗にふれたのか、しかし、それでは先ほどの表情の意味が分 からない。 そうこう思いを巡らせているうちにある部屋で刹那の体が吸い込まれた。 「…刹那」 電 気が点いていないそこは、初めて中を見た刹那の自室だった。必要最低限の物しか置いていない、空洞のような部屋。その中に独りたたずむ青年。 廊 下の光に照らされた背中は普段よりも小さくて消えてしまいそうだった。留めたくて伸ばしかけた腕を、いつかみたいに下ろす。 「そ の…、俺、なにかお前を怒らせたか?だったら謝る」 「あんたは何も悪くない」 冷静な声。完全には振り向かずに、 目線が俺をかすめたのを感じた。こちらからは横顔が見えただけだった。表情までは分からない。見えない。 もう少し近寄りたくて、一歩 室内に足を踏み入れた。 背後で扉が閉まる。 「でもよ、お前さっき――っ」 薄暗くなった部屋 に目が慣れる前に唇に柔らかい何かが触れてきた。 驚きに数度瞬くと、刹那の体が、顔が、目の前にあった。 あぁ、 また違う表情だ。 これは分かる。 「―あんたが、欲しい」 懇願。 「ん、 くぁ、あっ」 「大丈夫か、刹那」 こくこくと言葉なく頷くので体内を探る指を進める。 「は、… んっ」 なるべく力を抜こうとしているのだろう。顔を背けて口元に手の甲を当て、ゆっくりと息を吐く仕草に匂い立つような艶がある。 指 をもう一本増やし、二本をばらばらにうごかすと 「っ、あ、あ、…ん」 背をしならせ、もっとと言うように身をくね らせる。 刹那は男を知っていた。 だが、不思議とその事実に嫌悪は抱かない。代わりに浮かんだのは、嫉妬。この体 の上を通り抜けて行った何人もの男たち、そして、…ニールに。 指をさらに増やして後腔へ乱暴に突き刺すとぐじゅり、と濡れた音が部屋 に響きどろどろに溶けたローションがあふれ出る。 「ひゃぁ!、あッ」 ほとんど触れてはいない刹那自身は立ち上が り、先端から透明な蜜をこぼしている。 せわしなく呼吸と喘ぎを繰り返す唇からは唾液が伝い下りそれを無意識に舐めとる舌の紅に喉が鳴 る。赤く熟れたそこに己の唇を押し当て、貪るようなキスをして口腔をも犯して。 「んぅ、く」 息もつかせないほど に蹂躙したい。 互いの唇は深く合わせたままで刹那の足を膝が胸に付くくらい大きく開いて自身をねじ込んだ。 「――ッ、 あ!!ぅぐ」 充分にほぐれた刹那のそこは熱くて、狭くて、最高だった。 入り込もうとするとキツいほどに抵抗する のに中は蕩けそうな熱に満ち、引き抜こうとすれば蠢いて惹き止めようとしてくる。 「…ロック、オっ、はぁっ、ん」 組 み敷いた青年の感じ入った艶声。奇麗な赤銅色の瞳から大粒の涙が後から後から流れ落ちる。しなやかな腕が伸びてきて首にまわされ、至近距離で見つめ合う。 刹 那。それは、誰を呼んでいる? と。尋ねなかったのは答えを聞くのが怖かったからだ。 「ロ、ックオン、ロックオ ン、ロッ、クオン…ろっくおん!」 様々な感情が籠った声で刹那が呼ぶ。 どうして逝ってしまったの? お いていかないで。 独りにしないで。 愛してる。愛してる。愛してる。 「…刹那、」 彼 が今抱きしめているのは俺で、彼を今抱いているのは俺。 なのに、刹那が見ているのはどこまでいってもニール。 淀 みなく。真っ直ぐで。美しく。孤高。 あぁ、苦しい。心が搾り取られるようだ。 ニール、お前は逝くべきじゃなかっ た。彼を残して逝くべきじゃなかった。 刹那は永遠にお前を求め、愛するだろう。 俺が入り込む隙間なんて有りはし ない。俺はニールの代替物。 ニール、お前は逝くべきじゃなかった。 「……あれ?」 気付け ば、見下ろしている刹那の顔に雨が降っていた。 「…っ、泣く、な」 赤い唇が近付いて、目尻を吸われた。それでも 雨は止まらなかった。 「はは、なんで俺、」 掌で目元を覆い、笑う。きっと、歪んだ顔をしている。情けない。 「泣、 くな」 さらり、と頭を撫でられた。 「わりぃ、気にしないでくれ」 「…無理、だ。気になって しょうが、ない」 優しく、いたわりに満ちた手つきと声音。 視界を戻すと、俺の下で、全てを包み込むような慈愛の 表情をしながら刹那も泣いていた。奇麗な涙だった。 「あんたの、名前教えてく、れ」 機密事項とかそうゆうことは 欠片も頭に浮かばず、 「…ライル。ライル・ディランディ」 きらきら輝く雫に飾られた青年を見つめた。 「ラ イル、ライル。泣いてやれ。あいつのために、泣いてやれ」 「―――っあ」 もう、雨が止まらない。 す ぐ近くにいるはずの刹那が見えない。 「…ニール…っ」 ちゃんと声帯を震わしてこの名を口にしたのは久しぶりだっ た。 「ニール」 兄を呼ぶ刹那の声がする。 「ニール」 俺も兄を呼ぶ。 「ニー ル」 この世界のどこからも返事はないと分かっているのに呼び続ける。 「ニール」 ニール、お 前は逝くべきじゃなかった。 大事な大事な俺の片割れ。どうして先に逝ってしまったんだ。俺を置いて。 悲しいよ。 お前が隣にいないと寂しいよ。お前のために泣いたのは初めてだよ。やっと泣けたよ。この子が泣かせてくれたよ。お前が大切に慈しんだこの子が。 「ニー ル」 ニール、お前は逝くべきじゃなかった。彼を残して逝くべきじゃなかった。 代わりに俺が刹那をもらっちまう ぞ。なぁ、いいだろう?そうだな、今度会う時にこの青年を二人で取り合うのも悪くない。 それまで飴玉みたいに甘く、めいいっぱい刹那 を愛してやる! ニールなんてかすれて見えなくなっちまうくらい、な。 だからまずは、塩辛いキスをしよう。 Fin. |