太 陽が厳しい。
立っているだけでにじみ出してくる汗を首にかけたタオルでぬぐうグラハムは、麦わら帽子、ゴム長靴に軍手と完璧に農作業 向きの装いだ。皮膚の一部が未だにうっすらと変色している点だけが、彼を軍人であったころの名残として主張している。
やっと真夏を過 ぎたものの、照りつける日差しはまだまだ眩しかった。これから一日の中で最も暑い時間帯になる。ホースの先を押しつぶして作物たちにできるだけまんべんな く水を与える作業が夏にはことさらにグラハムのお気に入りである。少しでも涼しさを味わいたいが故に。
一線を退いたグラハムと彼の同 居人である刹那は地球に降り、こじんまりとした庭付き一戸建てをその有り余る資金で購入した。庭といってもそこには畝がひかれ、肥料が撒かれ、良く手を加 えられた緑が青々と茂る畑が広がっている。家庭菜園と言うには広く、農家と呼ぶには狭いその小さな畑。今の最先端技術と彼らの経済力ならばいくらでも近代 化を図ることができるそこを、二人はあえてなるべくテクノロジーに頼らない方針の下に愛情を込めていた。慣れない作業に戸惑い、まだまだ失敗も多いけれ ど、実りの時期の喜びは何物にも代えがたい。また、軍人として戦士として戦場で命を削ってきた彼らには、何かを自らの手で育めることが奇跡のように感じる 時さえあるのだ。
「グラハム。そろそろ休憩にしよう」
「ああ。分かった!」
畑に面する家の 裏口からかけられた言葉に応じ、グラハムは蛇口を閉めるため水場に向かった。指を離したホースからの水が跳ねないように、持っている方の腕をのばす。だば だばと地面に水分が含まれていった。
「フラーッグ!!戻るぞ!」
銀色の蛇口をぐいぐい回しながら大声で呼ばわる と、畝のわきの茂みが数度揺れ黒い塊が飛び出してきた。わんわん吠えながらグラハムのまわりを全く意味もなくまわるのはまだ若い、黒のラブラドールレト リーバーである。尾がどこかにぶっ飛ぶのではないかと本気で心配してしまうほど高速回転に興奮を伝えてくる愛犬の名はグラハムが付けた。最初聞いたときに なんとも微妙な顔を刹那にされたのはまだ記憶も新しい数カ月前だが、流石大型犬、すでに20キロ以上ある。これでまだ生後8カ月なのだから『あしがぶっと い子犬はでかくなる』と予言した、刹那の仲間であるロックオンの言葉は正しかった。
「フラッグ。おちつきたま――ぬぁっ!」
グ ラハムに注目してもらえて嬉しさが頂点に達したのか、フラッグは180の長身をモノともせずに飛びついて彼をぶち倒した。
「この、 く、うぉ」
犬の親愛を示す表現を顔中に受けながらなんとか熱い抱擁から逃れようとするグラハムが倒れたのは運悪く水撒きの洗礼を受け ていた場所であった。かぶっていた麦わら帽は彼方へ転がり、長靴は脱げかける。すでにTシャツは泥だらけだ。
「ま、ちょ、」
「… 何をしている。フラッグ!めっ」
途端に黒い暴走犬はグラハムに興味を失い、裏口から出てきた刹那の前におりこうに座ってわん!と一声 吠えた。勢いに押されながら途切れ途切れのグラハムの制止の声は完全に無視していたのに、刹那のびしりと抑揚の付いた叱りにはすぐに反応して見せるところ にこの家の力関係が見てとれる。
「おのれ…私の唇を奪おうとするとは…」
「馬鹿なこと言ってないでさっさとシャ ワーを浴びてこい」
「了解した」
いまだ興奮冷めやらぬ愛犬の背中をわしわし撫でてやりながらの刹那の言葉に良い 返事をして従う様子は、毛色の違うもう一匹の忠犬のようであった。





汗 とか泥とかその他もろもろとおさらばしてさっぱりしたグラハムがリビングキッチンに戻ってきた。フラッグは刹那に汚れた体毛を綺麗に拭いてもらい、台所に 立つ刹那の足元で何かよこせと無言のアピールをしている。
「刹那。せーつなー」
「ひっつくな。動きづらい。」
言 葉を話す黄色い犬はかまってくれと全身で訴え始めた。口ではそう言いながら、この男をひきはがす努力をするだけ無駄であるので、刹那は背中にかさばるモノ を付けたまま忙しげに料理の下準備を続けた。
「今日が何の日か君は承知しているか?」
が、その言葉にぴたりと動 きを止めると肩越しにグラハムを振り向いた。
緑の瞳が期待にきらきらと輝いているのを見ながら、やはりこいつは犬っぽいと再認識する 刹那。
「…しまった。今日は資源回収だったか?」
「それは次の日曜だ。…いや、そうではなくてだな」
「で は、スーパーの5パーセントオフの日か?」
「…それは20日だろう」
「…ドラマの予約を忘れただろうか」
「……… 刹那……」
ひどい忘れたのかとびゃぁびゃぁ騒ぎ始めたグラハムを何事だ、と言わんばかりの目でフラッグが見ている。
刹 那は少しいじめすぎただろうかとあきれ半分の溜息を吐いた。
「喚くな。せっかくあんたの好物を作っているのだから少し離れろ」
「な んとっ!それは…ええと…?」
条件反射にアメリカンな驚きを表しておきながら、いまいち分かっていないグラハムである。
「今 日はあんたの33回目の産まれた日だろう。だからこうやって下ごしらえもぬかりなくミッションを遂行してい―――っ!グラハム!!待て!」
「刹 那!!愛しているぞ!」
「んぅっ」
少々照れが混じった速い口調の刹那を遮ってグラハムは唇を深く合わせた。
『マ テ』の条件反射に背筋を緊張させた黒い犬に目もくれずに二人は互いに求めあう口付けをしている。
「は、」
唇の裏 のつるつるした面を楽しんだ後、歯列を割って口内に侵食したグラハムの舌は上顎のくぼみを細やかに刺激した。柔らかい頬の内側を舐め上げ、奥に待つ刹那の 舌に絡み付いた。それぞれに擦りつけるように動き、根元が痛くなるほど吸い上げる。
いったん唇を離し、額をこつんと寄せた。4年前よ りもぐっと縮まった二人の身長差は少年が大人へと成長したことを如実に表していた。
「祝ってくれるのか?」
「ぁ たりまえだろう」
刹那は今の今までそんなそぶりを欠片も見せなかった。さっぱり忘れられていたらどうしてくれようと思っていたのだ が、刹那の方が一枚上手だったようだ。
容姿はもちろんのこと、内面においても大人になった刹那に最近のグラハムは負けっぱなしであっ た。こういうのが『手玉に取られる』や『尻に敷かれる』と言うのだろうか。
刹那の尻になら喜んで敷かれよう。
「な らば続きは寝室でするとしよう」
「…これからか?昼はどうする」
「どうせ簡単なものにするつもりだったのだろ う?」
確かに、夜御飯は自分のできる限り豪勢な食事を用意するつもりだったのだが昼は胃に溜まらない楽なものにしておこうと思ってい た。
「ディナーをたらふく楽しめるよう腹を空かせておこうではいか」
下ごしらえが済んだ食材を冷蔵庫に入れなが らもグラハムは刹那の肩を抱いて離そうとしない。
「食事の前に君を味わいたい」







さ て。
こうなると少なくともあと2時間は自分が捨て置かれることをフラッグはこの家での数カ月の経験で学習していた。騒がしい方の主人 が静かな方の主人を引っ張って寝室に消えて行くのを見送ってから、リビングの自分の定位置に向かった。遊んでもらえなかったら寝るしかやることはない。居 心地の良い寝床の上であくびを一つ。ぐるぐる回転してから腰を下ろし、お気に入りのおもちゃを鼻先で押しやって場所を確保する。くわりとあくびがまた一 つ。明日は騒がしい主人が先に起きて自分に餌をくれるはずだ。そして、お日様がだいぶ上にきてから静かな主人が顔を見せるのだ。何やら文句を言いながらフ ラッグの背を撫でてくれて、自分は彼の所々硬くて優しい手を舐める。
どこかからの小鳥の声に黒い耳が反応した。今日はとんぼを追い駆 けて良い運動になった。少し眠れば主人たちがまた相手をしてくれるだろう。
さわりとカーテンを揺らす風がさわやかだった。
真 夏を過ぎた気候の変化を感じながら、フラッグは目を閉じた。
もうすぐ、彼らにとって初めての秋がやってくる。